善光寺について

善光寺本堂

平等山 善光寺

真言宗智山派

〒332-0013 埼玉県川口市舟戸町1−29

電話:048-222-2124

地図/アクセス

建久8年(1197)、定尊が信濃の善光寺の阿弥陀三尊を模造して安置し開創。信濃の善光寺と同様「一光三尊阿弥陀如来」を本尊としました。信濃の善光寺と同じ御利益があるとされ、江戸市民の信仰をあつめました。江戸市民は江戸近郊で手軽に善光寺参りができるとあってこぞって参詣しました。
現在、荒川のスーパー堤防工事が進められており、完成するのを待って本堂等の再築を予定しています。

善光寺の歴史

当寺は平等山阿弥陀院善光寺と号し、 建久八年 (1197) 定尊上人によって開創されました。
源頼朝が平家を打ち破り、 鎌倉に幕府を開いたいわゆる鎌倉初期のことです。

定尊上人は頼朝の族縁者で、 幼いころから学問に深く心を寄せ、 六歳 (一説に八歳) で出家し、 十四歳で受戒したのち法華経十万部念仏百万遍の大願をたて、 建久五年 (1194) 六十四歳で大願を成就したといわれます。
大願成就したその夜、 定尊上人の夢の中に、 信濃 (長野県) 善光寺如来の使者と称する僧 (一説に小童) が現われ、
「汝、 善光寺へ参詣すべし」
と告げ、 忽ちのうちに消え失せてしまいました。
夢から覚めた定尊上人は、 「これこそ善光寺如来の霊告である」 と三十二年間住していた甚目寺 (愛知県) をあとにして信濃善光寺へと旅立ちました。

定尊上人が信濃善光寺に参籠して三か月が経った十月十五日の夜、 耀く光明につつまれた善光寺如来 (一光三尊) がお姿を現し、 「汝、 すみやかに一切衆生に勧進して、 わが形像を鋳造すべし」 とお命じになりました。

「十月十五日の夜、 夢現の間に如来を拝見す。 忽然として一重の御戸開き、 内外の錦帳あがる。 一光三尊の聖容、 光明赫奕たり。」
 —— 『川口善光寺縁起』 (原漢文) ——

善光寺如来のご分身請来を発願した定尊上人は、 如来の平等慈悲を説き浄財を募りました。

建久六年 (1195) 五月、 体内に水晶の宝塔が納められた中尊 (阿弥陀如来) が鋳造され、 六月には観音・勢至の両菩薩のご分身ができ上がりました。
この尊像を笈に納めた定尊上人は、 笈を背にして諸国を巡錫し、 建久八年 (1197) 現在地を有縁の地と定め、 小宇を建立して尊像を安置しました。 これが当山の始まりです。

周辺地域の人びとの間には
——笈を背にして吾妻路を巡錫してきた定尊上人が、 荒川 (入間川) を渡ることができず途方にくれていると、 俄かに川の水が岩と化して陸地となり、 定尊上人がこれを渡りきると、 川はまたもとの姿にもどり何事も無かったかのように滔々と流れていた。 いらいこの地を岩淵とよぶようになったという。
あまりの不思議に定尊上人は、 笈を芦原に下ろしてしばらく念仏称名し、 再び笈を背にしようとしたところ、 笈は盤石のように重く微動だにしなかった。 定尊上人はこれこそ如来の霊告と確信して草堂を建立し尊像を安置した。 これが川口善光寺である——。
といういい伝えが残されています。

源頼朝は寺社を崇敬し神仏に篤く、 とくに善光寺如来に対する帰信渇仰の念は深く、 征夷大将軍家族縁者の一人である定尊上人の、 善光寺如来鋳造や当山開創にあたって、 頼朝による何らかの外護が与えられたことは十分に考えられ、 坂井衡平氏も 『善光寺史』 の中でふれておられます。

天正十八年 (1590) 八月一日、 徳川家康が関東八州の領主として江戸へ入部しました。
『校註天正日記』 によると、 九月十六日に当山から江戸城内へ餅をとどけ、 川口、 岩淵の人たちの願いごとが聞きとどけられた——と記されていますが、 その 「願い」 が何であったかは不明です。

天正十九年 (1591) 十一月、 家康は江戸府内外の古社旧刹に社寺領地寄進の朱印状を与えました。 当山も十石の朱印地を拝領して徳川家の祈願所と定められ、 諸堂宇が修復され山容が整えられました。

寛永六年 (1629)、 江戸幕府は荒川の流路を変えて入間川と合流させました。 水量、 川幅が増大し、 いらい当山の水禍の記録が増大しています。

慶安二年 (1649)、 三代将軍・家光より朱印状を拝領しました。 朱印状は歴代将軍によりその都度拝領するもので、 当山には九通の朱印状の写しが所蔵されています。

明暦年中 (1655〜8)、 当山は落雷によって諸堂宇を焼失しましたが、 諸尊像は無事に運び出されました。

元禄八年 (1695) 三月、 一容上人によって当山が中興されました。 奈良大仏殿や鎌倉大仏殿の営繕をはじめ、 諸国の旧刹再興に尽力した祐天上人が、 由緒ある当山の荒廃に心を痛め、 一容上人に協力しました。

『江戸名所図絵』 に描かれた当山山容の基盤は、 この時代に確立されたと推察されています。

江戸時代も元禄年中 (1688〜704) に入ると庶民の生活も比較的安定し、 物見遊山を兼ねた寺社詣でが盛んとなります。 信濃善光寺、 甲府善光寺とともに三大善光寺に数えられる当山は、 宗派を問わず人びとの厚い信仰が寄せられました。

洪水によって諸堂宇が壊滅的な被害を蒙り、 全国的な大飢饉という状況下にあって再建工事の進捗が一頓挫すると、 多くの檀信徒が老若男女を問わず近郷近在の村々はもちろん、 江戸市中までも財施を募って歩き、 幕府によって停止令が出されたという記録が残されています。

当山のご本尊 「善光寺如来」 が開帳されるとなると、 参道には露店や見世物小屋がたち並び、 「弐万八百九拾弐坪」 の境内に参詣人が群集して怪我人が出たり、 ある年には岩淵からの渡し船が転覆するなどの事故が起こるほどの賑わいとなり、 その賑わう情景が錦絵となっています。

開帳のおり当山を訪れた津田十方庵も 『遊歴雑記』 に
「——舞雲雀の遠近にくぜくも優にやさしく面白し、 頓て赤羽根村の出茶屋に憩ふ、 是より川口村へ弐拾余町ありとかや、 此日快晴にして風なく路平らかに、 参詣の往来の男女江戸人ならざるはなし||左の方大門の間凡三町ばかりを過て善光寺へいたる。 大門の並木の間々には出茶屋いろいろの食店あり、 又右側には歌舞伎の芝居あり、 左の方には曲持又は軽わざの見せものなどありて境内は群衆夥し、 頓て口そそぎ手洗ひつつ本堂へ参詣し見るに、 開帳仏は一光三尊にして御丈の恰好も信州善光寺の尊像に髮髴として——」
とその情景を記しています。

安政の大開帳 (立川斎国郷 画)

安政の大開帳 (立川斎国郷 画)

安政の大開帳は、『武江年表』によると、安政五年(1858)三月一日から六十日間にわたって営まれたもので、当時、第一の浮世絵師といわれた立川斎国郷(りゅうせんさいくにさと)によって描かれています。これによって当時の繁栄ぶりがうかがわれます。

文化・文政年中 (1804〜30) は、 江戸文化が最も花開いた時代といわれ、 『江戸名所図会』 に描かれた当山全景もこのころのもので、 境内には十五堂宇が描かれ、 当山の幸運隆盛のほどを如実に物語っています。
『嘉陵紀行』 によると
「戸田より東行一里ばかり平原を行けば、 川口善光寺へいづる。 此原に鹿数多来る。 今日は啼音を聞かずしてやみぬ——」
と記され、 開帳の際には参詣人で賑わう当山も、 ふだんは境内や周辺の芦原に鹿が遊ぶ、 静寂な旧刹特有のたたずまいをみせていたことがわかります。

慶応四年 (1868)、 二百六十余年にわたった江戸幕府が崩壊し、 明治新政府が樹立されると、 神仏分離令が布告され廃仏毀釈運動が全国に広まります。 各寺院は一様に荒廃への道を辿り、 当山も、 本坊 (善光寺本堂) と支坊 (東明院、 西善院) の三か寺に分割され、 一時は宗教活動にまで支障を来す状態に陥りますが、 明治二十七年 (1894)、 一堂二院を合寺して改めて善光寺と称しました。

いらい元文四年 (1739) に建立された本堂をはじめ、 諸堂宇はしばしば修復され、 太平洋戦争の空襲禍をも免れたものの、 残念ながら昭和四十三年 (1968) 災禍によって焼失してしまいました。

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